香港中を騒がせている事件について

一昨日少し触れた件について、ジャパナビりえさんのblogに香港中文大学の陳智遠教授の新聞批判があり、これは香港だけではなく日本でも同様ではないか、と思ったのでその部分だけ転載します。

ジャパナビりえ的香港TV道:事件に触れてみますが - livedoor Blog(ブログ)』より

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集団のぞき趣味症候群

男女が行為中にお互いの気持ちが盛り上がってきた時、合意のもとに写真を撮ることがあって何が悪いのか。
芸能人は、人々の好奇心のためだけに無制限で全てを公開されることも仕方がないという発想はおかしい。
こうしたニュースを本当に一面で報道する必要があるのか。
(ところで、「わいせつ写真」という表現だが、男女の写真は必ず「わいせつ」なのか?)
もしも写真が合成であるなら、ニュースとしての価値は全くない。
逆にゆがんだ悪質な悪戯などの流行を煽っているにすぎないのではないか。
もしも本物だったら、ただ街を歩いているだけでも誰でも目に入るようなこの状況が被害者にさらなる傷を負わせることになるのではないか。
何者かが一枚一枚写真をネット上に公開して、一波紋ずつ一波紋ずつ計画的に被害者を攻撃している。
マスコミはこれに同調して、共犯者になる必要があるのか。

香港のメディアは全てエンターテイメント化している。しかし、読者もまたそれを低俗だと非難しながら、それに慣れ、それを読んでいる。
ただし、メディアは「色気」「娯楽」に加えて、もうひとつ「曖昧」というものが売りになっている。
写真が本物か偽物かが明確になっていないのにも関わらずマスコミは「中立」「客観」という武器を使って「〜かもしれない」という表現の元に毎日報道を続け、「真実を解明する」と言いながら、市民全員を引き込んでいく。
また新しい写真が出れば、またそれを一面に載せる。
そして当事者の「認める」言葉を待ち続ける。
表面は「忠実なる報道」、でも実際にはその事件そのものに色をつけ、煽っている。
これが偽善ではなく、なんなのか。

写真が本物であるかどうか、恐らく今関心を持っている人はいない。
本物かどうか、みんなもう知っているだろう。でも、本物か偽物かなんて、そもそも、もう関係ないのだ。
要するに、人々のその芸能人に対する個別のイメージ、例えば、「遊び人」「尻が軽い」「ぶりっこ」などというものをこの写真によって確認できれば、それで満足なのだ。

報道の自由は開放された社会に必要なもの、インターネットの自由は全ての人が情報を共有するために必要なもの、ただ、これらの権利は人間を尊重しなければ価値はない。

人々は真実か嘘かを考えることもしたくない。
自分が共感する情報を見れば、それが正しいかどうかも考えずにただ受け止める。
頭を使って情報を選り分けることもしない。
こういったことで、客観的な報道、全ての人が知る権利、ネットの自由などという美しい言葉は絶対的に崩壊する。

芸能人はもちろん人間である。
人間であれば、欲があることも正常なことである。
尊重される権利も至極当然である。
人の秘密を暴いたり、広めたりすることが悪いことだという意識が薄弱なのが現代である。

もし、写真の中の人物が自分の親戚だったら、当然すごく怒るだろう。
もし、写真の中の人物が赤の他人だったら、多分「ちょっとかわいそうだね」、と一言言うだろう。
しかし、写真の中の人物が芸能人だったら、「有名税」という一言で彼らの人権も尊重も全て無視していいというのは正しいことなのか。

(中略)

世の中、多くの話題はエンターテイメントで成立している。
これが一種の文化となっている。
もともとそうではなかったものも、エンターテイメント化することが求められる。しかも、文句を言わず、それを受け入れるしかない。
結局我々は、人生最期のその日までをエンターテイメント化しなければいけない動物になるのだ。

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