【355】情報の取捨選択

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インターネットを通じて様々な情報を手に入れられるようになりました。筆者も日々その恩恵にあずかっています。そしてそれは裏を返せば、誰でも様々な情報を発信できる(このブログのように ^^;)ということでもあります。しかし情報の流通量にある程度比例して、信頼性は下がっているようにも思えます。友人のブログにこんな行がありました。

> 近年、新聞やTVの情報も信用されなくなってきてます。簡単に情報発信はせず、価値ある情報をふさわしい手段で発信することがますます重要ではないでしょうか。

確かにその通りですね。しかしそれに加えて筆者が思うのは、受け取る側も同様に、価値ある情報を見極める努力をする必要があるんじゃないかということ。その情報が正しいのか間違っているのかを見極める、というのはもちろんですが、正しい情報ではあるけれど、それはあくまで一面的な事実しか述べていない、という場合もあります。発信側が何かを意図して、わざと一面的に書いているということも多々ありますからね。「確かにその通りだけど、でも結局こういうことでしょ?」みたいな、もう一歩掘り下げるような読み方をしないと、良いように操られてしまう可能性があるんじゃないかと。

大げさに言えば、こういう見方が出来る人と出来ない人の間には、何らかの差が生まれるのではないかと。筆者は情報の発信側としても努力したいと思いますが、同時に受け取る側としても努力していきたいと思っています。

コメント(2)

> 受け取る側も同様に、価値ある情報を見極める努力をする必要がある

同感。

「あるある大辞典」での納豆の効用について、製作側の責任のみ取りざたされるが、受け手側のリテラシーの向上がないと、ダメなんじゃないかと思います。

>ぜんぞーさん
そうそう、事の本質は、流れた情報が正しいか、間違っているかということだけではないと筆者は思っています。

仮に流れた情報を信じて間違いを犯した時に「テレビで言ってたから」とか「新聞に載ってたから」って言って、許されると思うんですかね?その間違った情報を信じてしまったのは自分自身なんですから、少なくとも責任の過半数は自分自身にあるでしょう。

あと、納豆の話については以前に書きましたが、仮に本当にダイエット効果があったとしても、店から納豆が消えちゃうほど大騒ぎになるってのは、何かおかしいと思うんですよね。

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このページは、もりもりが2007年2月25日 22:20に書いた記事です。

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